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朝5時、雨、冷えた汗、少し吐き気がする胃の中、傘に雨粒が落ちる、落ちる音だけが現実だ
珈琲と砂糖
僕はほぼ毎日珈琲を飲む。
いつからだろうか、それは定かでは無い。
飲まないと駄目な訳では無いが飲まないと何かが足りないような気がしてならないのだ。
基本的に珈琲はブラックで飲む。
多分昔の自分は大人になりたかったんだろう。
ブラックを飲んでる時だけは”大人”になった気持ちだったんだろう。
それを飲み続けてるのは大人になりきれて無い自分を隠すためなのかもしれない。
この文章を綴りながら缶コーヒーを啜ってる。
都会のビルに囲まれた隕石でも落ちたかのような不思議な空間の公園の小さなベンチで。
なんだか肌寒い
秋入梅が降る中で啜った珈琲は大人になれない癖に無邪気にも笑えない自分の味だった。
次は微糖にしてみるかな、
五月蝿いなぁ、もう。
都会の喧騒には時に孤独感を、
でもその喧騒、それが妙な安心感を醸成してるんだと思います。
でも不思議です。誰1人として知り合いなんていないのに
そんな心はどこに依拠しているのでしょうか。
僕にはそれがまだ理解できない。
電車が通る音が何食わぬ顔でイヤホンを突き抜けて聞こえてくる。
あぁ、五月蝿いなぁ、もう。
街の灯は紺碧の海に浮かぶ船の明かりの様に見えた。
ルビンの壺の様なもの
皆さんはこの絵を知っているでしょうか。
そうこの絵はルビンの壺(盃)と呼ばれる絵です。
黒を見れば”向かい合う男女”
白を見れば”盃”
2通りの見方がある絵なのです。
Instagramと呼ばれるアプリが市井で流行っている。
そこでは自己顕示欲と承認欲求と嫉妬とが渦巻くなんとも気味悪い世界だった。
仮面舞踏会でも見ているようだった。
表向きでは良く見えても本当は醜いもの。
だが現実を見ようとする人は少なく一面的にしかその写真とやらを見れてないようだった。
一抹の現実逃避なのか、
なんとも面白いものだ。
そんなInstagramに支配されている人間になんの価値があるのだろうか。
”いいね”の数がステータス?価値?
笑わせんな。
冷水としゃかい、巻き込まれるこども
起床。雨のノイズで目が覚めた。
僕はそんなノイズを打ち消すように洗面台で激しく冷水を顔にぶつけた、意識がはっきりしていくのがわかる。
現実に引き戻される。
冷水はこの世のものとは思えないほど冷酷に思えた。
人間の惰性とは恐ろしい、無意識にテレビをつけた僕に真っ先に飛び込んできたニュースがあった。
9月1日に子供の自殺が1番多い事に対しての樹木希林さんのメッセージのニュースだった。
https://futoko.publishers.fm/article/9204/
夏の終わりを感じた。
言いたいことは僕でも理解することはそう難しいものでは無かった。
自由に新しい世界を見れるなら、新しい世界で生きることを恐れないならば、社会から外れるそんな勇気があるのなら。
僕はそんな気持ちを持てる子達が自殺するとは思わない。
本当に自殺するのは誰からも縛られ、衆人環視にあいながら、社会から逃げる事を許されてない子供達。
でもそんな子供達が悪いわけない。
抑圧してるのは”おとな”なのだから。
その集合体である”しゃかい”なのだから。
少し喉が渇いた、冷水は僕の体に染み渡った。
この世のものとは思えないほど悲しい味がした。
僕の知らない所で悲しむ人の深い藍の味がしたんだ。
思い出し鬱
皆さんは過去の忘れたかった事を思い出して気持ちが下がることはあるだろうか?
所謂、「思い出し鬱」なるものだろう。
私は多々ある、それも1日の暇な時間でふと考え事をしているとすぐに過去にあった嫌な事や失敗を思い出して鬱(正確には鬱の感じ)になる。
本来忘れたい事なのに何故思い出してしまうのだろう。
私はその「思い出し鬱」になるたびにGoogleの検索窓に
「死にたい」
という抽象的な言葉を無意識に打ち込んでしまうのを控えたいと思ったのであった。
だがそもそも「死にたい」なんて打ち込んだところで返ってくるのは健常かつ、情熱的かつ、楽観的な人間が書いたであろう
「死なないで!あなたは素晴らしい!生きるって楽しいよ!」
とか吐かしてる真夏の昼さがりの蒸し暑さと同じような 鬱陶しさ を感じるサイトばかりである。
それが今の日本の現状、いや今の検索エンジンの現状なのかもしれない。
そんな思い出し鬱に私は奇妙な親近感と懐かしい匂いを感じた雨の日でした。